ジョサイア・コンドル
Josiah Conder


数多い御雇外国人建築家の中で日本に最も大きな影響を与えたのはイギリス人ジョサイア・コンドルです。彼は19世紀ビクトリア時代のイギリスで著明なゴシック建築家であったウイリアム・バージェスの事務所で修行し、1876年にはイギリス王立建築家協会主催の競技設計に一等入選して名誉あるソーン賞を受賞しており、イギリスでも将来を嘱望された建築家であった。日本政府の招請に応じて工部大学校兼工部省営繕局顧問として契約し、1977年(明治10)に来日した彼は、結局、1920年(大正9)に日本で没するまでの生涯の大部分を日本における建築活動で過ごす事になる。コンドルの初期の作品は当時、日本最大の煉瓦造二階建て建築であった上野博物館(後の帝国博物館1881年竣工、震災焼失)、開拓使物産売捌所(1880年竣工、震災焼失)、明治政府欧化政策の舞台となった鹿鳴館(1883年竣工、1940年取り壊し)などが有名である。これらの作品で注目されるのは上がインド・イスラム風、開拓がベネツイアン・ゴシック風、鹿鳴館がイギリス・ルネッサンス風と言うようにそれぞれ様式が異なっており、しかも装飾には積極的にサラセン(イスラム)建築の要素をとりいれようとするなど、多彩の様式を試みていたことである。建築に応じて様式を使いこなす様式建築家として当然の態度ではあったが、コンドルが日本の風土に相応しい建築様式をかなり自由に模索していたことはたしかであり、明治政府が期待したイギリス・ヨーロッパの建築様式の直輸入とはかなり異なっていた事になります。来日当時24歳だったコンドルは工部大学校造家学科の主任教授として教壇にたち、同年代の学生たちの指導にあたりました。当時は修学期間が6年であり、4学年の後期にかかっていたのに専任教師のいなかった第1期生達はコンドルを歓迎し、熱心に教育、指導にあたりました。造家学と呼ばれていた中心教科目の内容には「建築の歴史と芸術」があり、エジプト建築から当時のヨーロッパの現代建築であったリバイバル様式の建築の他インド、中国、日本の東洋建築までも含む建築様式論が享受された。また「建築構造」には、木構造、煉瓦造、石造をはじめとする建築工事の広範囲の内用が含まれていました。更にコンドルが設計を委託された上野や開拓などで実際の設計実務や現場での実地教育も行われた。理論や知識だけではなく現場での実務も含めた実践的な教育体制がとられていたことになる。 この中から1879年、第一期生として辰野金吾、曽根達蔵、佐立七次郎、片山東熊の4人が世に送り出されたのをはじめとして在任中に多数の優れた建築家を送り出しました。