小樽の

経済史


本府札幌の外港としての小樽

明治2年、榎本武揚が降伏すると明治新政府は鍋島直正を開拓督務に命じ、開拓使という特別機関を設置し、新北海道を治めることとしました。札幌を本府とし、判官島義勇が同10月に函館から現小樽市郊外の銭函に着任、ここに仮役所を開いて、札幌本府の建設に着手しました。同時に小樽に手宮海官所(税関、海上保安、海運局等の港湾に関する事を取り扱う役場)を設置しました。この事は今後の港湾都市小樽としての発展に大きな意味を持ちます。

現在の小樽港


クラークと鉄道

小樽と札幌の間に新橋-横浜、大津-京都-大阪間についで第3番目の鉄道が、明治13年に開設されました。この事が港都、商都としての地位を確立した訳ですが、幌内石炭を太平洋に出すか、日本海に出すかで政府部内が2分されました。米国農務長官で開拓使筆頭顧問のケプロンが室蘭説で札幌農学校のクラークが小樽説でした。明治11年、鉄道建設技師として招かれたJ.U.クロフォードは現地調査の末、小樽説で鉄道建設可能な事を進言し米国式鉄道をが走りました。

今は汽車の走らない手宮線路


「樽僑」と呼ばれた小樽商人

次の時代には2つの戦争(日露戦争、第一次世界大戦)によって商工業の発展が促されました。小樽商人の系譜は奥州系(漁業、海産を経て海運、倉庫へ)と北陸系(米穀、雑穀、雑貨と経て海運へ)の二大潮流です。小樽商人の代表的な2人は小豆将軍と呼ばれた高橋直治(欧州の戦火が東欧の穀倉地帯に広がり相場の大暴落で小豆によって巨利を得た。)と海運王・板谷宮吉(明治26年英国から貨物船を買い入れ海運業に進出、直後に日清戦争、10年後の日露戦争で政府御用船となり、明治44年ハワイ航路開設、明治45年板谷商船となる。)

小樽港の貨物船


北のウオール街

三井財閥の北海道進出は三井八郎右衛門が北海道物産所の産物掛総頭取となったのに始まる。三井銀行小樽出張店は明治13年、三井物産は同16年と言われています。北炭、三井鉱山の石炭の他、砂糖、綿花、雑貨、機械、船舶、木材の分野で強力な支配力を持っていた様です。
三菱は日本郵船を通じて関係が少なくなかったが、三菱合資会社が小樽支店を開設したのは大正に入ってからでした。最初の目的は大夕張の三菱鉱山の石炭取り扱いでしたが、鉄、非鉄、機械、食品と幅を広げていきました。
日本銀行は明治40年小樽出張所を設置する。大正の終わり迄には三井、安田、十二、第一、不動貯蓄、三菱を含め19行。函館16行、札幌10行を凌ぐ金融都市でもありました。

さくら銀行小樽支店(旧三井銀行小樽支店)


北のウオール街の翳り

大正14年、青函連絡船の貨物輸送が始まると小樽港の取り扱い量は再び函館に抜かれ、大正15年には移出量で室蘭ににも追いつかれます。また、大正9年、初めて国勢調査が実施された時の都市別人口の第一位は函館14万5千人、第二位が小樽10万8千人、第三位は札幌10万3千人でした。大正14年には札幌に抜かれ、昭和40年には旭川、昭和50年には釧路に追い抜かれ道内人口第5位の都市になりました。人口のピークは昭和35年の19万9千人で20万都市にはなれせんでした。札幌は戦後、25万人で道内一位、昭和25年31万人、昭和35年52万人、昭和45年101万人、昭和55年140万人、昭和58年150万人都市となり、神戸、京都と抜いて全国第5位の都市となりました。

北のウオール街と呼ばれていた現在の色内町


官庁都市、札幌の台頭

昭和に入ってからの産業組合主義の勃興に続く、統制経済は自由な小樽商人の活動の場を縮小すると同時に、官中心の管理機能、情報機能を持つ札幌への吸引力を強めました。経済の担い手の大手商社は昭和27年に日商岩井が出張所を廃止したのをはじめとして。30年代に三井物産を除く総ての支店、出張所の機能を札幌へ移行しました。金融の要である銀行は、日本銀行が昭和17年札幌支店を開設、都銀は昭和36年の住友を皮切りに三井(現さくら)が特別出張所として残っているのを除いて、総て昭和45年までに札幌に移行しました。小樽商人の多くも30年から40年にかけて移し始めました。この様な札幌に対する小樽の状況は、東京と横浜、大阪と神戸とは違っていました。横浜は緑区や金沢区のような住宅地を持ち、神戸はポートピアのような埋め立て可能海面を持っていますが、小樽は土地が無さ過ぎました。また、樺太を含む北方への道を閉ざされる一方、苫小牧や石狩の新しい港が現れたもの拍車をかける事になりました。

今は少し寂しい、北のウオール街を支えた色内町飲食店街


小樽博覧会

昭和59年夏、小樽博覧会は168万人の入場者を集めて終了しました。テーマは「新しい海のある生活都市へ」、地域活性化を願った小樽の経済人の意欲が博覧会を成功へと導きました。「海」を持たない数少ない産業都市、札幌に対して「海」と「歴史」と「生活のにおい」を持つ小樽として生きたいと言う願いがこめられています。新鮮な魚介類を題材にした食の文化も強みです。鮨、刺身、海鮮料理や蒲鉾や珍味加工業者も高いレベルです。「海」に関してのもう一つの文化に「ガラス工芸」もります。かつては漁網の付属品であった浮き玉の工場を借りて大阪の若者グループガラス工房を開き、他の者は運河沿いの石造り倉庫を改造してガラス工房を作りました。運河と倉庫とガラス工芸は小樽の新しい観光の目玉と成長し、現在に至っています。

小樽博覧会



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