小樽と

小樽運河


小樽運河

魚場オタルナイから交易小樽への変身

小樽の語源はアイヌ語のオタ、オル、ナイ(砂浜の中の川)で、元は銭函の名ですが、魚場と一緒に地名も引っ越しました。豊かなニシン魚場の小樽は、文化年間(1804年〜1818年)から栄え、明治・大正時代は出稼ぎ漁民「やん衆」が溢れ、ニシン漁に湧きかえりました。明治に入り1869年、本府さっぽろは人口数人の原野で、札幌建設の資材搬入港となり船舶の往来も激増、北海道の要港に成長しました。

悲運を秘めた運河の誕生

運河造成計画は明治29年、各町代表が集まり、増加する一方の船や貨物のさばき方を話し合ったのが始まりでした。当時は人口約62000人の函館に次ぐ大都会だが、小樽の富が一部の商人に握られていたこともあり計画は進まず、国会論争にまで発展し、大正12年9月にやっと誕生しました。各町代表の集まりから28年、既にハシケ荷役方式は時代遅れでしたが、400ものハシケが渡され威勢のいい掛け声が響き、立派に役割を果たしました。小樽の交易時代の絶頂期は運河と共にありました。

小樽の斜陽化とそれを救った蘇える運河

昭和25年までに二つの埠頭が完成、30年代にはハシケも100を割り、隣接札幌の著しい成長と反対に小樽は斜陽化、運河には廃船が漂いはじめました。 昭和41年、小樽臨港線道路の新設を機に運河の埋めたて計画が出ました。16年にわたる埋めたてか保存かの運河論争の末、昭和61年に南側半分が埋めたてられ散策路に整備されました。石造り倉庫群も店舗や博物館に再利用され、運河は歴史と浪漫の街小樽の象徴として蘇りました。激動の運命を経て、ガス灯のゆらめくエキゾチックな通りに新しい人生をみいだした運河は、訪れる人々を静かに優しく見つめてくれることでしょう。

参照文献:小樽市図書館より
小樽経済部観光課 0134-32-4111
(社)小樽観光協会 0134-33-2510

朝里海岸から祝津を望む

小樽の漁場らしい漁場と言えば札幌側から銭函、張碓、朝里、小樽港を跨いで、高島、祝津、と並んでいますが、あまり行かれたことも無いと思います。(高島、祝津は観光ガイドにも多く登場していますが・・・)そこで今回は朝里駅付近の景色をアップしてみました。

朝里漁港の冬支度

この景色がやけに気に入っています。日本海の荒波は来年の春まで厳しいです。とうさん、かあさん、そして犬の太郎(?)も寒そうですが頑張りましょう。

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